2014/07/27

心理社会的モラトリアムに囚われる

夏です。
これからますます熱さが厳しくなると思われますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
寝る子こと私です。

大学院に入学してからはや4ヶ月が経過しようとしております。
色々と思うところが多く,辛さを感じる日々でございます。
私と同じく大学院に進学なされた各位はそろそろどの学会に参加なされるか苦慮なされている頃かと存じます。

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この度大学院修士課程に進学した私はこのままでは,学部卒と変わらない状態で修了するのではなかろうかと危惧しております。
と言いますのも,修士と学部の学生の間には,それら二つの課程を分ける何かよく分からない要素が横たわっているのではなかろうかと少しばかり期待していたためであります。
しかしながら,そのようなものは夢幻であり,存在しないという事実を薄々感じている昨今です。
昔世話になった指導教員曰く「修士で社会にでる修行をして就職するのだ」と言っておられましたが,そもそも修行とは何をすればいいのかがさっぱりです。
これは単に,私の不勉強さが招いた事態でありましょうか。
誠に,そのような事実にただただ悲しみを感じる次第であります。

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誰も彼もが,情報を与えてくれるわけではありません。
「求めよ,さすれば与えられん」ではないのです。
「ねだれ,勝ち取れ。さすれば与えられん」なのです。

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私は現在,無気力と戦いながらなんとか進捗を作っている現状であります。
何か専攻科生時代に苦しんだことを再び繰り返しているような幻覚さえ抱いておりますが,そも,同じことを繰り返すのであればそれは中学生でもできることです。
我々は少しずつ前に進んでおります。
それが牛歩とか亀のようにと言われようとも。
しかし,

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人は否定してばかりでは萎えてしまいます。
つまりは私のような状態であります。
ここから脱却するべくには,いかようにすればよろしいのか,私には分かりませぬ。
何より,人の語る「これこそが社会の求める姿である」というのが,私には人の騙る姿に見えてしまうのであります。
おそらくは,悲観主義めいた批判者,何もしない人間がなる末路の果て,見出した私の目の前に横たわる何かというものは,虚無主義めいた何かなのではなかろうかと,愚考する次第なのです。
ひとまずの,失楽園が私の暇つぶしとなり得るかどうか,それもまた私の無気力がいかようになるか次第でありましょう。

かしこ。

2014/07/25

クロネコヤマトの再配達

16時とか17時頃に帰宅すると,クロネコヤマトの不在票が入ってるので,
再配達を当日で頼んでも来ないことがあり,少々の不満を抱くこと今日で2回目。
1回目はサービスセンターだかにクレーム入れたのですが,さすがに2回目ともなると面倒くさくなったのでやめました。

そんなわけで,本日はクロネコヤマトの再配達についてです。

1. 何で再配達申込したのに来ないのか

一説では「配達員の巡回ルートにあわないから」と聞きます。
なんてこった。
クロネコヤマトも配達業なのですし,ユーザの要求に答えてほしいものですが。

2. 再配達受付のシステムについて

クロネコヤマトの不在票には,電話とインターネットで再配達の受付ができると書いてあります。
この時,再配達の条件について次のように書かれています。

- インターネット受付の場合,当日中の再配達受付は19時40分まで
- 午前中指定は当日の10時まで,それ以外は配達開始時間(例:12時~14時なら当日12時)までの受付

ところで,このブログ記事を書いていて気付いたことは,配達開始時間って書くぐらいなので,午後は2時間毎に配達便が出ているという解釈でいいんでしょうか。

3. 結局私が不満なこと

16時とか17時頃にインターネット受付で18~20時に再配達依頼しても来ないのが不満なのです。

4. 面倒くさくなったので言いたいこと

当日中に再配達依頼出しても再配達できないなら何で当日中も選択できるようにしてるんだ。
もう少し再配達受付とドライバーの経路について考えた方がいいのでは。
と思ったがこれ全国規模で動かしているサービスなので,
インターネットで受付する→担当地区に連絡が行く→ドライバーに通知される
のタイムラグがどんなものか分からないという点はある。
ただ,タイムラグを考慮しても1,2時間前には出した再配達依頼が無視されるってどうなのよ。

こっちはサービス提供している以上やってくれると思っているから依頼してるのだ。

こんなにプンスコ書いてて思い出しましたが1回目はもっと悲惨だったのを思い出しました。
再配達依頼出す→「配達依頼受付したよ!」→「今から配達するね!」→「不在だから持ち帰ったわ,すまんな」
というのをかまされた上に,持ち帰りましたとステータスが更新された時刻は,こっちが指定した時間より前というクソ具合,じゃあ何でお前持ち出したんだよ。
そういう意味では再配達受付してから一向にステータスが変化しないほうがまだましである。

どっちにしろ,指定した時間に来ないのはクソだと思うのだが。

ちなみにやばいと定評のある佐川はこっちでは普通なので,地方による差が酷そうである。
しかし西濃は神。

追記(2014/11/01):
クロネコヤマトの配送センターが近くなので,どこかに出かけるついでに取りに行けばいいことに気づきました。

2014/07/16

文明の勝利を感じた

つい先週の話ですが,安アパートの湯沸し器から水しか出なくなったので,交換してもらいました。
家賃がすごい安いところなので,まあ設備もそんなものだろうとは思ってましたが,よりによって入居4ヶ月目に入ってからこうなるとは…。
で,今まで使ってたのはどんなものかと言うと,使うときに種火をつけ,蛇口から出る水量が一定量を越えないとメインバーナーに点火されない湯沸し器です。
こんなの生きてて初めて見ました。
私が見てきたのは温度表示用のパネルがついてて,蛇口をひねればお湯が出るか,温度設定のつまみまわしてボタン押せばお湯が出るものだけだったので。

そんなわけで,大家に設備屋を呼んでもらい,交換してもらいました。
作業時間は2時間程度,一応勝手に家に入ってもらって作業というのは防犯意識的に辛いので立会という名目で,隣の部屋でPCぽちぽちいじって待機してました。
最新?モデルの湯沸し器は,これまでのものよりずっと小さく,そして温度設定が可能になってました。
私この時の説明で初めて知ったのですが,「湯はり」機能って単純に設定した量だけ蛇口からお湯出したらアラーム鳴らすだけなんですね。
勝手にお湯はってくれるやばい便利機能かと思ってました。
いや勝手にお湯はってくれる給湯器とか怖くてむしろ使いたくないと思いますが。

とまあ,実は入居して2ヶ月目,3ヶ月目辺りから熱湯が出なくなっていたので,兆候はありました。
でもまあぬるま湯でも出てるからいいやって感じで妥協してたのですが,この度はお湯すらも出なくなったのでもうダメだこれと思いました。
ほんとの所は,水しかでなくなってから,湯沸し器を交換してもらうまで,週末をまたいでしまったので何日かのブランクがあったのですが,その間は近場の風呂屋に行きました。

で,新しい湯沸し器でシャワーを浴びたのですが,蛇口をひねるとお湯が出る。素晴らしい。
しかも設定した温度に保ってくれる。水を出して自分で調節する必要がない。素晴らしい。
まさに「文明の勝利」を感じた瞬間でした。素晴らしいです。

ぬるま湯しか出なくなった辺りからQuality of Lifeの低下を感じており,気だるさがつきまとっていました。
水しか出なくなった時はもう給湯器があることで得られていた分が全て失われていた感じがありますね。
しかしこの度の交換により,Quality of Lifeが大幅に回復しました。
やっぱりお湯で浴びれるシャワーとお風呂は素晴らしいです。
これでまた,週に一度の楽しみとしていた入浴剤を入れてのお風呂を楽しめます。
よかった。

2014/07/14

正しさとは。

本稿は特に意味のない思索の成果である。
ちなみに本稿を執筆するべく思索を行った時間はほんの数時間程度であると考えられ,各位に於かれましては,深くその意味を考えることなく,ただの雑文であると断じて頂きたく存じます。

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拝啓
高専という5(7)年制の即席の職業訓練学校[1]を卒業し,今では大学院修士課程で"課題発見型"技術者[2]を目指すべく(?)修練を積んでいる昨今であります。
皆様,7月も折り返しとなり,これからますます暑くなることが予想されますがいかがお過ごしでしょうか。
この度,正論をこの細身で浴び続けた日が終わりを告げ,これからは正しさと向き合いながら生きていくようになること,不安に思っております。
果たして"正論"が"正論"と呼ばれ,いつの日も嫌われる状況に於かれましては,その正しさは何処に有りやと感じる次第であります。
取り急ぎ,季節の挨拶を述べさせて頂きました。
今後も皆様の益々のご活躍,ご多幸をお祈りさせていただきたく存じます。
敬具

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というわけで,今日の話題は"正しさ"としたわけですが,これは私がよく分からないと感じているものである。
正論が正論たる所以は,それが正しくて反論の余地がないからだと私は考えているのだが,それではその正しさは何から生まれてくるのだろうか?
いわゆる倫理や道徳と呼ばれるような,世間で共通認識としてみなされている価値観に従って考えることにより,正論の正しさが証明される,すなわち正しさというのは倫理や道徳から生まれている,と思うのだ。
いや全くもってその通りである。
そも,人のあるべき姿,すなわち善とか悪とか正しいとか間違っているとか,そのようなものを定義していった結果出来上がるものが,今日我々が倫理とか道徳,あるいはモラルなんかと呼んでいるものであろう。

では次だ。
今貴方は正論が正論たる所以は,今日我々が倫理やら道徳やらモラルやらと呼ぶものにあることを確認したと思う。
その倫理やら道徳やらモラルやらというのは,おそらく善とか悪とか正しいとか間違っているとか,そういう作られたカテゴリに我々が思いつく限りの行為をあてはめた上でそれらに通じる普遍的な要素を表した,つまりは一般化したものであると考えて良いのではないだろうか。
そして,次へと至るために,一つの事実を確認しよう。
正論が正論たる所以は,それである。
すなわち土台が別のものになった時,正論が正論たる所以は失われ,そこから"正しさ"は失われる。
それでは,新しい土台を用意したとして,そこからもまた,正論は生まれるのである。
何故ならば,正論というのは,「全くもって正しい,それ故に反論する余地がない,いや反論したところでそれは正論の前では無意味なものと成り果てる」からだ。
では,新しい土台,所以の上に成り立つ正論とは?
それは貴方がどのような倫理とか道徳とかモラルやらと呼ばれるものを定義するかによるとしか言えない。

では次,というかこれで最後にしよう。
これは私が時々感じるようになったことであるが,普遍的な正しさなど存在しないのである。
慈愛で戦争は止まらないし,暴力で平和は訪れない。
公的な権力は度が過ぎればディストピアを生むし,ユートピアに溢れるものは自由だけではない。
つまるところ,あらゆる価値観に共通する正しさとは存在し得ないのではなかろうか。
いやあるか,自己中心的というものが。

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[1]: 我が恩師のお言葉である。高専を即席の職業訓練学校と批判し,高専という教育機関の姿を追い求めておられたが,定年退官なされた。
[2]: 我が恩師のお言葉である。私に,これからは"課題解決型"ではなく"課題発見型"の技術者が必要である。そのためにも大学院修士課程で自分を磨くよう激励なされた。