2014/07/14

正しさとは。

本稿は特に意味のない思索の成果である。
ちなみに本稿を執筆するべく思索を行った時間はほんの数時間程度であると考えられ,各位に於かれましては,深くその意味を考えることなく,ただの雑文であると断じて頂きたく存じます。

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拝啓
高専という5(7)年制の即席の職業訓練学校[1]を卒業し,今では大学院修士課程で"課題発見型"技術者[2]を目指すべく(?)修練を積んでいる昨今であります。
皆様,7月も折り返しとなり,これからますます暑くなることが予想されますがいかがお過ごしでしょうか。
この度,正論をこの細身で浴び続けた日が終わりを告げ,これからは正しさと向き合いながら生きていくようになること,不安に思っております。
果たして"正論"が"正論"と呼ばれ,いつの日も嫌われる状況に於かれましては,その正しさは何処に有りやと感じる次第であります。
取り急ぎ,季節の挨拶を述べさせて頂きました。
今後も皆様の益々のご活躍,ご多幸をお祈りさせていただきたく存じます。
敬具

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というわけで,今日の話題は"正しさ"としたわけですが,これは私がよく分からないと感じているものである。
正論が正論たる所以は,それが正しくて反論の余地がないからだと私は考えているのだが,それではその正しさは何から生まれてくるのだろうか?
いわゆる倫理や道徳と呼ばれるような,世間で共通認識としてみなされている価値観に従って考えることにより,正論の正しさが証明される,すなわち正しさというのは倫理や道徳から生まれている,と思うのだ。
いや全くもってその通りである。
そも,人のあるべき姿,すなわち善とか悪とか正しいとか間違っているとか,そのようなものを定義していった結果出来上がるものが,今日我々が倫理とか道徳,あるいはモラルなんかと呼んでいるものであろう。

では次だ。
今貴方は正論が正論たる所以は,今日我々が倫理やら道徳やらモラルやらと呼ぶものにあることを確認したと思う。
その倫理やら道徳やらモラルやらというのは,おそらく善とか悪とか正しいとか間違っているとか,そういう作られたカテゴリに我々が思いつく限りの行為をあてはめた上でそれらに通じる普遍的な要素を表した,つまりは一般化したものであると考えて良いのではないだろうか。
そして,次へと至るために,一つの事実を確認しよう。
正論が正論たる所以は,それである。
すなわち土台が別のものになった時,正論が正論たる所以は失われ,そこから"正しさ"は失われる。
それでは,新しい土台を用意したとして,そこからもまた,正論は生まれるのである。
何故ならば,正論というのは,「全くもって正しい,それ故に反論する余地がない,いや反論したところでそれは正論の前では無意味なものと成り果てる」からだ。
では,新しい土台,所以の上に成り立つ正論とは?
それは貴方がどのような倫理とか道徳とかモラルやらと呼ばれるものを定義するかによるとしか言えない。

では次,というかこれで最後にしよう。
これは私が時々感じるようになったことであるが,普遍的な正しさなど存在しないのである。
慈愛で戦争は止まらないし,暴力で平和は訪れない。
公的な権力は度が過ぎればディストピアを生むし,ユートピアに溢れるものは自由だけではない。
つまるところ,あらゆる価値観に共通する正しさとは存在し得ないのではなかろうか。
いやあるか,自己中心的というものが。

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[1]: 我が恩師のお言葉である。高専を即席の職業訓練学校と批判し,高専という教育機関の姿を追い求めておられたが,定年退官なされた。
[2]: 我が恩師のお言葉である。私に,これからは"課題解決型"ではなく"課題発見型"の技術者が必要である。そのためにも大学院修士課程で自分を磨くよう激励なされた。

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