2014/10/22

「自己理解」と私は言った。

昼,多くの学生が正午に食堂に向かうのだから,じゃあ私は時間をずらして向かおうと思った。
きっと誰もが食堂に行って昼ごはんを食べようと思う時間より少し後に,私は小雨の中,傘をさしていつもの食堂へと向かう。
どこかのアカペラサークルだか何かが練習しているんだろう。
彼女たちの歌声を聞き流し,「きれいな声だな」と言ったくらいの拙い感想を抱いて私は食堂へと入る。
彼らは食堂の上に設置された学生会館なる建物のベランダで練習しているのだ。

食堂に入り,いつもそうしているようにてきとうに選んだおかずとごはん,そして味噌汁をつけて惣菜の小鉢を取る。
もはや私の選ぶおかずは3パターン程度に絞りこまれているので,何を選ぼうにも2,3日前のメニューと被る。
そんなことはどうでもよくなったので,カウンターで注文しておかずを出してもらい,ごはんと味噌汁も出してもらって,トレーに乗せて会計へ。
入学時の目論見が外れたので,一人寂しく消費することを余儀なくされた学食専用電子マネーで支払いを済ませ,窓際に設置されたカウンター席の端っこに座る。
共に食べる仲間などいないので,黙々とスマホを片手に昼食を食べながら,私はふと思った。

ああ,結局私は表に出て目立ちたくないという消極さと同時に,私はここにいるという自己顕示欲をこじらせた人間の屑なのだなあ,と。
結局のところ,書いて字の通りなのである。
私は目立つのは嫌である。
多くの人から注目を集めるのは苦痛である。
私はそう認識している。
ところが,本日の授業の終盤で実施された演習の時にも感じたように,私の功績を褒めてほしいとも思っている。
それは,人より早く,あるいは一番早い人から数えて何人目で問題が解けた,というちっぽけな結果なのだけれども,私はそれに対してもっと注目して欲しい。
頼って欲しいという欲求を抱いた自分を自覚したこともまた事実である。
そういうわけで,私は先に書いたようなことを思ったわけである。

それから私は,自分の価値について少し思いを巡らせた。
私が受講している授業担当曰く,「君達の学んできた専門に価値はない(※1)」と。
私たち学生は,今現在自分が所属している大学において,確かに電気電子工学を専門として学んできている。
そして私たちは,所定の課程を修了した後,おそらくは電気電子工学を学んだ人間を必要とする企業へと就職するだろうし,それを強みであるとして売りにしようと考えるだろう。
ところで,電気電子工学を学んだ人間を輩出できる教育機関は,一体どれほど希少なのであろうか。
答えはそもそも希少価値が存在しない,であろう。
何せ今となっては電気電子工学を学べる教育機関など全国に散らばっている。
どこもかしこも同じような科目を設置して,学生に教えていることは明白であろう。
その上で,私たちが用いる専門性には価値はあまり認められないという意見には同意を示すしかなかった。
それでは,一体どこに価値を見い出せばいいのであろうか。
あるいは,どこに価値を求めればいいのであろうか。
学んできた専門の価値が低いのであれば,それ以外に求めるしか無く,それ以外ともなれば,その人々の個性であるとか,積んできた経験とかになってくる。
つまりは,学業として学んできたこと以外のものをアピールする必要がある。
具体的にはプレゼンテーション能力とか,性格とか,取り組んできた研究とか,これまでの学生生活を通して得た経験とかである。
そのように考えた時,面接官が,学生に対して"個性"なるものを求めようとする動きも,まあなんとなく理解できたように思う。
何せ,専門性はほぼ一定のレベルになっており,比べる必要性が薄れたためであろう。
そのために,それゆえに,面接官はそれ以外に人と比べられるもの,企業に人材として受け入れるに値する価値が存在する部分を求めた結果が,個性なのだろうと私は愚考した次第であった。

……そんなわけで,就活生が自己理解なるものに勤しめと言われる理由もまた,少し理解できたように思う。
要は「これが私のアピールポイントです」と自分の価値を宣伝するために,その材料を探せと言っているのだ。

※1:「こんな偉いこと言えるほど私にも価値があるわけではありませんが」と前置きがあったことをここに追記しておく。

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